神様仏様。

 日本人は古来よりキャラ萌えをしていた(結論)。


 朝から南港でお買い物……の予定だったんですが、予想以上に人が少なくてとっとと撤収。結局15時ぐらいからひたすらロッテリアでだべるというコースになりました。



 Yちゃんとあれこれ話をしてたんですが、最初は理系と文系の違い、という話からいつの間にか神様の話になり、キリスト教における神と日本の八百万の神天照大神とは何なのか、などなどディープな方向へ。絶対主義と相対主義の議論からコンプレックスの話に流れ、とりあえずお手紙を書きましょう、というオチで決着がつきました。気が付いたら21時半ですからね! いやーアゴが疲れたアゴが疲れた。



 はじまりはYちゃんがテレビで最先端技術の紹介を見た、というところだったんですが(今から考えるとあれはノーベル物理学賞の「CP対称性の破れ」についてのテレビだと思われ)、とにかくそんな風に追求していって、莫大な費用をかけてその物質を作り出して、それを解明して、それでいったいそこに何があるのか、ということを考えると怖くなる、という話から。



 わからない=怖い、というのは理解できます。わからないもの、実体のないもの、目で見えないもの、触れないもの、というのは怖いものです。だって何かわからないから。自分自身がそれを認識し、理解できないと人は恐れますよね。たとえばインターネットが怖いというのは理解できるわけです。あれこそ仮想世界で、0と1で構成されていて、でもそこにはいろんなものが繋がっていて、共通のひとつの仮想現実を作り出しているわけですからね。



 たとえばそこまで詳しくやったわけじゃないですけど、量子力学というものがありまして。一応さらっと走りだけは大学で勉強したんですが、いわゆる不確定性原理というものがあるわけですよ。つまり確率でしか物質の位置は決められない、とまあ私は解釈してるんですが、一生懸命噛み砕いてシュレーディンガーの猫を説明したんですが(私自身もそこまでわかってないけども!)でもまあ、いわゆるニュートン力学ではミクロの世界を説明できないので、それに変わる新たな仮説およびそれに基づいた学問が立ち上がって、一生懸命それを説明しようとしてるっていうような解釈です。



 文系は(ここでの文系は歴史、文学、言語、文化などを研究する人々)そこにあるものを研究するわけで、そこにそのものがあって、それをどう解釈するか、という問題なわけです。それを前提に理論を組み立てて、結論を導き出すわけですよね。でも理系はあるかどうかもわからないものを探求する。実験して、結果から原因を考察する。その原因が正解かどうかを様々な手段を用いて事実であると証明していく、という方向なわけです。それが理系と文系の違いなんじゃないの、という仮説ですね。



 そこから、じゃあそもそも真実ってなんだよ、過去にあったことは果たして真実になりえるのか、っていうわけですね。所詮記録と記憶でしかないわけですから、過去っていうのは。(既に理系と文系の話ではないけども)



 ってことで絶対主義と相対主義への発展です。いやぁ議論が白熱すること!! 散々高校生のときにジェニとやらかした議論ですね。で、そこから最終的には(高校のときもそうでしたけど)神が存在するか否か、になるわけですよ(笑)



 ここからはあくまで私の認識なので勝手なことをぶちまけてます。



 いわゆるキリスト教における唯一神の私の解釈ですが、つまり神=絶対の存在、なわけですよ。私はこの世に絶対なんてないと思っているので神はいないわけですが、絶対なものがひとつ確定されれば、それを根本にすべてを構築することができます。だから神は唯一でないといけないし、他にたくさんあってはおかしいわけです。そしたら絶対性がゆらぐから。

だから人々は神との関係によって自分自身を確定し、そのことによって生きていくわけです。神に祈り、神に赦される。神は罰を与えもするし、神は救いを与えもする。ということです。全ては神の御心のままに、であって、そこに理由とか原因とか結果とかはないわけです。そうすると全てが一元的に説明できて、何もこの世に矛盾などなくなってしまうので、問題はないわけですよね。



 ところが日本の神様は沢山います。万物全てに神が宿り、それを信仰するという形をとってきました。山が崩れれば山の神様にお祈りし、川が氾濫すれば川の神様にお祈りし。恋人が欲しければ縁結びの神様がいて、商売繁盛したければ恵比寿様がにっこり笑ってくださるわけです。その他にもいろんなところに神様がいて、それぞれに日本人は手を合わせてきたわけです。



 日本古来の人々は、よくわからないもの、人間の力でどうにもならないこと、なんかを全部神様にお願いしてたわけですね。しかも、全て自分のために。まわりに沢山神様がいて、その神様に生かされていると意識して感謝して生きるというのが信仰のスタンスなわけです。その時点で神様と人間は対等ですよね。怒らせたら暴れるからご機嫌は伺うけども、それは自分のためなわけで。神様に祈りはするけれど、赦されるなんて感覚はないわけです。



 仏教にしたって、原始仏教は違ったかもしれないけど後期に発展していった仏教というのは結局「南無阿弥陀仏」と唱えたら極楽へいけるぜ!っていうことですからね。仏をしっかり信仰すれば死後の世界で幸せになれるよ、とか、大丈夫だよ、という確約なわけです。結局帰ってくるのは自分のためじゃないですか。



 だからありがたければなんでもいいんです。それぞれの神様がそれぞれのキャラクターを持ち、機能をもち、それと共存するのが日本人の暮らし方なわけで。たとえば最近流行のパワースポットだとかスピリチュアルだとか、つまりはなんか知らんけどいいことありそう!とかなんとかしてくれ!という人間の欲望のためのものですよね。



 そういう意味では日本人は相対主義的なのかもしれません。わからないものそれぞれにそれぞれの個性を与え、神格化することによって解決してきたわけですから。そしてさらにそれを拝むことによってなんとかしようとしてるわけですからね。ものごとを理解するときにまず自分のわかりやすい形にしてから解釈する、という手段の結果がな気がします。



 たとえば古事記の神様にしても、あれは歴史的な見方と神話的な見方ができると思いますけど、神話的に見た場合、あいつらは別に何かの機能を与えられて発生した神とはまた別なわけじゃないですか。自然から発生したわけでなく人為的に人格と機能を与えられているわけで。日本は神様がたくさんいていいので、相手の神様を消す必要ないわけです。相手が信仰している神様を、自分が信仰してる神様の家来とか息子とか家系に組み込んじゃえば。その時点で相手の信仰まで支配できて、かつひとつの世界で神様を管理できちゃうわけですね。仏教もそうで、インドの神様を取り込んでかってに守り神にしちゃったり、いろいろやってますもん。



 結局そこで機能と個性を与えて神様を作ってるわけです。あとはそれを民衆が信仰するかどうかで神様が生き残っていくかいかないか、ですから。信仰がなくなる=神様が消える、っていうことですから、たとえば川ががっちり整備された今では氾濫することもないし、また氾濫の原因と結果がはっきりしてるから川の神様はいなくなりました。でも、縁結びに関しては人がなんとかできる範疇じゃないからまだまだブイブイ言わせてるわけで。



 天照大神に関しては結局皇室の祖先+太陽、っていう機能を与えられたから総合的に君臨してる感じですけど、月読命に関してはあんまり人々は夜に興味がなかったのかそのままキャラクターも失ってあんまり拝まれてない、というその差な気がするんですよね。結局キャラクターが必要なわけです、日本の神様には!



 そりゃあ現代の人々がキャラ萌えするってもんだよな! と全然違う結論に落ち着いたのでした(笑)



 でも本当にこういうウルトラスペシャルどーでもいいことをひたすら話すっていうのが楽しくてしょうがありません。時間がなくなっていくにつれてこういうことも減っていくけど、いろいろ議論してみたいもんです!



 今日はここまで。