沖縄旅行3日目。

沖縄を考える。


 今日も今日とてトーストとヨーグルトと野菜ジュースとコーヒーの朝食を7時から摂っていたのですが、別のお客さんがクリームチーズを持ち込んでてそれアリやな!!と思いました。トーストだけの朝食のときはいろいろ考えたいと思います。

 さて本日天候は曇り。ですが気温が低いのでやっぱり肌寒く感じます。お世話になったお宿をチェックアウトし、いざ首里城へ。朝イチでいったので駐車場が空いていて助かりました。そもそも首里城が何たるかということ自体もよくわかっていなかった私。琉球王国時代の城でしょ、とか簡単に思ってましたが、さらにいうと琉球王国自体の歴史があるわけで。守礼門をくぐって中に入っていくんですが、門も石垣も建物も、どれもやっぱり大和(=本土)とはまったく文化が違います。やっぱり中国っぽいな、とは思うんですけど、中国とも言い切れないこの感じ。

 瑞泉門(そういや瑞泉っていう泡盛がありますな)やら漏刻門を通って正殿前に行くのですが、ぐるりと御庭(うなー)を正殿含めて建物が取り囲み、かつ庭が石造りというのはいっそ遠くイスラムのモスクすら髣髴とさせる感じでした。城砦っていうよりはやっぱり政治の中心とか祈りの場所(調べてみたらやっぱり御獄(うたき=拝所)もあちこちにあって、南側は聖地だったみたいです)のイメージの方が強いからなんでしょうね。

 ちなみに南殿から入っていったのですが、南殿は薩摩藩の接待に使われていた場所だそうです。ということで、完全に大和風のつくりになっています。書院造で、白木だし畳だし床の間あるしふすまだし、見慣れた日本の建築、という感じ。奥の書院は国王の普段の居室らしいんですが、そこも完全に和風です。お茶室までばっちり完備してます(庭園もあったけどそこは気候が違うのでソテツとか植わってました)。

 が、正殿に行くとがらりと雰囲気がかわり、完全に中国風になります。要所要所に日本的な意匠があるらしいんですが、全体の雰囲気としては完全に中国。が、中国とも言い切れない、なんだこの折衷感は! というもどかしい気持ちになる建物でした。あくまで混合されている、という感覚で混合されて新しいものが生まれているというよりは頑張ったらまた2つに分けられるような、そういうサラダボウル感?(notるつぼ) 

 北殿の中は資料館風になっていて、当時の琉球王国の儀式の様子とかを模型や図式で表してあったりするんですが、結局やっぱり琉球王国っていうのは中継貿易で成り立っていた国なんですよね。だからどっちの文化もはいってくるというのは納得するんですけど、こう、完全にどっちの文化にも対応できるようにリバーシブルな感じになっている気がしました。それが琉球文化、っていうと納得できるかもしれません。どちらでもない、でもどちらの形にもなれる、そうして一つの国として独立する、という歴史が文化を創ってきたというか。あくまで政府としてのスタンスがそうだったのかな、という気がしてしまいます。

 ちなみに琉球王国の歴史をいろいろ調べていたんですが、結局祖先は大和と同じ、みたいですね。ただもちろん大陸系の人も大量にきているわけですから一概にそうとも言い切れないんですが。神話も伝説も独自にあって、一応神話としては平安末期ごろからの王統があるみたいですね。1429年の尚氏王統によってようやく琉球王国として成立した、ということらしいですが、それ以前の三山時代からそれぞれ中国と貿易したりしていたみたいです。いや、一応北殿の資料館の中にも王の系譜とかいろいろ書いてあったんですけど、それが日本史と対応していないもんですから時代がまったくピンとこなくて! ようやく江戸時代に入って薩摩藩の影響が強くなって、琉球使節ぐらいでようやく教科書に登場するぐらいだと思うんですよね。まあ異国だったから当たり前なんですが。

 そういや鹿児島の尚古集成館とか、知覧の武家屋敷なんかを見に行ったときに琉球、もとい中国風の文化的な要素を感じたな、と思い出しました。まあ薩摩もブイブイ言わしてたんだな、ぐらいの受け止め方でしたが逆に王国側からするとあれこれ大変だったようです。まあ中継貿易の必要性がなくなってしまうと確かに国家としては難しくなる感じがしますが。

 そういう意味では当時の大和との関係性としては密接だったけれど、あくまで国同士のお付き合い以上のことはなかったんだな、という感じです。その後まあ、近代に近づいてくるといろいろあるんですけどね。

 とりあえず歴史の勉強はおいておいて、おみやげコーナーではシーサーに夢中。だってかわいいんですもの! 生粋の狛犬好きとしてはやっぱりシーサーが可愛くて仕方ありません。結局めちゃめちゃハイセンスでかっこよかったシーサー便箋を購入してしまいました(誰かに手紙書こう……)。姉はシーサーマグネットをゲットしてご満悦です。でも可愛かったなぁシーサー。ああ、可愛い狛犬探検の旅に出かけたい!

 首里城を見た後は周辺の園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)、龍潭(りゅうたん)などなども見学。御嶽というのは、まあほんとにざっくりいうと神社なのかな、という感じがします。しかも集落にある小さい鎮守の森、みたいな。要は神様を祀ってるところ、なんですけど、祖先崇拝と神話信仰と自然崇拝が1つにまとまって、媒体として神に仕える女性(=ノロ)がいる、という感じでしょうか。原始の大和でも同じような状態だったんだろうな、という感じではあります。ちなみに園比屋武御嶽は国王が各地巡航する旅に出るときに拝礼した場所なので、基本は国家の聖地という扱い(なので首里城の傍にある)みたいですね。ご神体?というか聖地?というか神様が居たり降りたりする場所?としては森になるみたいです。そのあたりは結構御嶽によってまちまちみたいですね。

 ということで御嶽つながり、続いては斎場御嶽(せーふぁうたき)に向かいます。南城市なので太平洋側にあります。ちなみに「せーふぁ」は「最高位」を意味するらしいので、要は一番位が高い御嶽、なんだそうです。

 駐車場に車を止めて、まずは緑の館・セーファに入館。その奥の山が斎場御嶽となっています。御嶽の入り口以降はかつては男子禁制(大峰山の逆だね!)。そこから奥に入っていくと「大庫理(ウフグーイ)」「寄満(ユインチ)」「三庫理(サングーイ)」とそれぞれ祈りをささげる場所があります。途中には砲弾でできた池なんかもあったりするのですが、現在も参拝されていて国家的に重要な拝所、でありながら、自然造形物そのままを置いてあり一切拝殿などの設備がない、ことが不思議でした。

 大和でも、それこそ三輪山なんかでも今も昔も三輪山はご神体で白蛇の神様がいるんですが、拝所として拝殿やら鳥居やらの人口造形物がでてくるわけじゃないですか。常に参拝されているなら余計にこう、拝所としても近代化していくような気がするんですよね。他の御嶽を見ていないのでもしかしたらもっと集落の中にある小さい御嶽とかだとお地蔵さんみたいになってるのかもしれませんけど……と思っていろいろ調べてみたらやっぱりピンキリみたいです。そう思うと斎場御嶽はやっぱりそれだけ自然に近い形で残されるべくして残されてきたものなのかもしれませんね。確かに自然崇拝からスタートしたのならまあ、それもそうか。三輪山も山の中の聖地自体はそのままにされてるわけですもんね。

 もしかしたら国のあり方と共にいろいろ変化していたのかもしれませんが、なんとなく個人的には、祈りをささげる場所というよりは自然と対話しようとする場所に思えました。神聖な、とか荘厳な、というような空気感はを感じられなかったのはすでに観光地化されてしまっているから、かもしれませんが、なんとなく沖縄の人々と神様との距離感が近いのかな、という気がしました。その辺は大和も琉球も同じような気がします。

 さてそろそろお昼ごはん、ということで続いて同じく南城市の知念にある「カフェくるくま」に向かうことに。本格タイ料理のお店でございます。なんでも結構口コミで有名で、海の見えるテラスでお食事ができるということなので車を飛ばして向かいます。

 行ってみて初めてわかったんですが、どうやら「くるくまの森」として軽いテーマパーク調?になってました。メインはノニやうっちん(ウコン)など薬草の販売会社みたいですが、その中になぜか化石なんかを集めた「夢可視館」があったりします。

 ちなみにカフェは本当に眺めがよくて最高でした! いい感じに雲も切れて、太平洋を眺めながらシーフードカレーを頂きます。姉はタイカレーを頼んでおりました。トムヤムクンもあったので、せっかくなので食べたい! と頼んでみたらコレが本格の名に恥じないとんでもない辛さ。汗を大量にかきながら完食いたしました。おいしかったですよ! 半分ぐらい丸呑みしちゃいましたけど!

 しばらくテラスで景色を眺めたり、売店を見たりしてから(紅芋のブルーシールアイスを買ったんですがすんごいボリューミーでした)、続いては平和祈念公園へ。糸満市にあります。

 沖縄の歴史について何も知らなかったことからもそうですが、沖縄戦についても教科書に出てくるざっくりとした部分しか知らないんですよね。やっぱり沖縄に来たからには行かなくては、ということで平和祈念資料館を拝見。

 率直な感想としては、本当に沖縄についてまったく知らなかったんだな、と。そもそも琉球王国の消滅から廃藩置県での沖縄県の設置までにいたる琉球処分の流れやら、その後の近代化政策、戦争までの流れっていうのから知らなかったので(ただしこのあたりは本土の歴史も曖昧な部分が多いのでもう一度きちんと学びたいところではあります/時代によって説明も解釈も事実も変わりますからね!)まずそこからスタートしていたので理解しやすかったです。世界恐慌→移民促進→ファシズムなどなど、一度確かに学校でやった気がするけどすっかり忘れてた事実、というのがいろいろありました。

 いろんな感情を排除して純粋に驚いた点としては、「地上戦」とはこういうことか、と思いました。私が過去にいった平和祈念資料館というのは長崎と広島で、どちらも一方的な核兵器による大量殺戮、についての展示だったわけです。地上戦は当然のことながら日本軍とアメリカ軍との衝突が、民間人が生活をしている地上で民間人を巻き込んで行われたものですから、その内容はまったく違います。日本軍にもアメリカ軍にも甚大な被害があり、その中で一般の沖縄県民の被害が何より大きかったという事実がそれを物語っています。(実際に世界のあらゆるところで地上戦が行われている、という事実も一緒に思い出しました)

 日本側でもアメリカ側でもなく、「沖縄」から見た沖縄戦という展示が新鮮であり、また胸に響きました。視点を変えればまた解釈もいろいろ変化すると思いますけどね。視点が変わると何が正しいかも変わりますから。

 戦争を知らない世代としては結局のところいかに想像ができるか、ということだと思うんです。それは戦争に限らずありとあらゆる災害や被害や、もしかしたら日常の些細なことにおいてもそうかもしれませんけど、結局のところ私達は体験をしていないわけで。感情や気持ちというものはその本人しかわからないけれど、残された写真や映像や書籍や語り継がれていく様々なものでもって私達はその当時を想像するしかないわけです。そしてそのことについて、どう考えるのかということを自分自身に問いかけて、自分の考えを導き出すことだと思うのです。

 展示も工夫されていたと思いますし、目を背けたくなるような写真や映像も沢山ありました。もちろんそれが全てではないし、ある一部分を切り取ってきたにすぎないですが、それを手掛かりに私達はひたすら考えなくてはいけないんだなと思いました。

 個人的にぐっときたのがガマ(洞窟)の模型の展示でした。沖縄本島にはガマと呼ばれる自然にできた洞窟が大量にあり、それが防空壕として利用されていたようです。そこに兵隊と一般市民が逃げ込み、外に出ればアメリカ軍か火炎放射器や手榴弾、機銃掃射などで攻撃を加え、見つかることを恐れた日本軍兵士による虐殺が起こったり、集団自決など(強制かどうかについて、さまざまな意見があるところではありますが)とにかく多くの人がなくなった場所なのだそうです。

 それを文章で読むよりも、写真で見るよりも、実際の模型でガマの様子を展示してあるその中に入ったときが一番どきどきしました。人が少なくて1人で入ったことも大きかったかもしれませんが、やはり目で見るだけではなく、実際に周囲を取り囲まれるというのは違いましたね。

 見終わってからはさすがに3人とも無言でしたが(苦笑)公園内の慰霊碑や、展望台などにも行きました。

 かなりぐったりはしていましたが、続いてひめゆりの塔へ。こちらもおそらく教科書では1行ぐらいしかやっておらず、ざっくりとした事実しか知らなかったので勉強になりました。こちらはひめゆり学徒隊に焦点を当てて、1人1人の名前と年齢と性格とがわかった上で、彼女達がいったいどのようなものに巻き込まれ、彷徨い、死んでいったのかが展示されていますから、平和祈念資料館とはまた違った形で胸に迫るものがあります。名もなき一市民、一兵士が大量に亡くなっていった、というのではなく、自分と同じひとりの人間が、家族も生活も夢も希望もあったひとりの人間が死んでいったという事実について考えることができました。

 当初は証言員の方々の実際の証言を中心に構成されていたそうですが、年月を経るについて高齢化が進み、戦争を知らない世代にも何があったのかという事実を伝えるためのわかりやすい展示にリニューアルされたのだそうです。最後の平和への広場で、世界の平和博物館の取り組みなんかを紹介されているのもなかなか興味深かったです。

 で、沖縄戦についていかに自分が何も知らなかったかということを痛感したわけですが、もっと驚いたのは、実は平和祈念資料館に展示されていた「沖縄戦のその後」です。

 私が生まれたのは1985年なので、そのとき既に沖縄は日本国沖縄県、になっていました。本土復帰は1972年ですから(ちなみに昨日訪れた海洋博公園はそれを記念して75年に開催)、それまでは当然のことながら渡航にはパスポートが必要で、沖縄行きは国際線だったわけです。

 まずその事実を全然知らなかった、というか教科書ではもちろんやってたけど事実として認識していなかったということに愕然としました。そりゃそうか、そりゃそうだな、と今帰仁城首里城、平和祈念資料館、と順番に歴史を追ってきてようやく身に迫って納得したというか。

 琉球王国としての独立を想定したものの破棄され、ベトナム戦争の影響を受けて米軍基地となり、泥沼化したベトナム戦争の戦線から戻ってきた兵士による多数の犯罪が治外法権で裁かれず、住民の不満の高まりなどなど、知らなかった事実が沢山ありました。本土復帰も佐藤首相の時代ですからアメリカとの交渉云々についてもまったく知らないわけで。基地についてもその当時から賛否両論あって、基地ありでの復帰か、基地なしでの復帰かでもめたとか。

 確かに道路を車で走ってるいるときにやたら道路工事を見かけるなと思っていましたが、実質現在の経済状況から公共事業が中心になっていてそうなっている、ということも初めて納得しましたし(個人所得が最も低く、失業率が最も高い)。基地問題が一筋縄ではいかないもの事実だなと改めて納得した次第です。

 戦後の50年代〜70年代っていうのは、なんというか私の中では空白の期間で、そりゃまあ生きてないから当たり前なんですけど、現在につながっていく一番直近の歴史を知らないんだな、と。本土ならなんとなく予想がつくんですけど、特に沖縄は一時期外国だったわけですし余計にですよね。

 そういえば小学生のときに、担任の先生が夏休みに沖縄旅行にいってきたということで話をしてくれたことがありました。あれが95年か96年? その当時の沖縄のイメージは先生がおみやげでくれた「ちんすこう」「黒砂糖」と、「昔はアメリカだった(道路の右側通行か左側通行に突然変わって事故が沢山起きた)」というエピソードだけですもん。それ以外は全部本の話ですもんね。沖縄旅行に行って沖縄土産くれた人はいっぱいいたけど、海とご飯と観光以外のこと教えてくれた人誰もいなかったよ!(当たり前)

 通りでどこにいってもサラダボウル感がするはずです。中国の影響、日本の影響、アメリカの影響、そして琉球に住む昔からの人々の文化、っていうのが混在してるわけですもん。

 ただなんとなく、私の中では(もちろんそう教育されて育ったからというのもありますが)沖縄は日本なんだな、と思っていたいと思います。だって同じ言語(もしくは語族)で同じ文字なんですもん。日本人が日本人たる所以っていうのは、実は宗教でも文化でもなくて、言葉なんじゃないかと思っていたりするので。(日本語は系統関係不明の孤立言語)

 もちろん全く同じ日本語というわけじゃなくて(琉球語を日本語の一方言とするか、日本語とは別の言語とするかもどうやら諸説あるらしい)、独自の言語体系が存在するわけですし文化的に違いもありますけど、日本のひらがなを使って、日本と同じ語族に属して人々は言葉を交わしているわけですから。琉球王国としての独立を望む声も実はまだあったりするらしいのですが、少なくとも日本政府は沖縄に対して責任があるわけですし、もろもろの問題を是正するために頑張ってもらいたいと思います。

 いろんな思いを抱えつつ、まだ少し時間があったので琉球ガラス村に寄っていくことにしました。もっと時間があれば体験なんかしても面白かったんですけどね! 結局紅いもタルトを発見したので、それだけ購入してレンタカー屋に戻りました。

 返却もスムーズに済んだんですが、送迎バスが出るまでふと手にとってみた沖縄タイムスの社説を読んでみていろいろ考えさせられてみたり。やっぱりそこに住む人々にとってはまだまだ何もかも終わっていない、つながっている事実なんですよねぇ。(そういえば会津若松でも似たようなことを考えさせられましたね)

 空港に戻ったんですが、母と私はぐったり疲れていたのでベンチで休憩、姉はお土産などを見に行っておりました。帰りの飛行機でなんとなく寝そびれてしまったので、ひたすら手帳に日記用のメモを書き残しておりました。(あまりに必死に書いていたらしくCAさんに読書灯使ってくださいと勧められました)

 沖縄に行っている間に本土はどえらい寒波がきていたらしいのですが、少し時間が遅れるぐらいで無事に伊丹に到着。バスの時間も迫っていたので、そのままそこで解散となりました。

 しかし本当に充実した3日間の旅でした。貴重なものもいっぱい見れたし、いっぱい楽しめたし、何より本当にいろんなことを知れたのが良かった旅行だったと思います。っていうか何より沖縄っていうところが実に興味深い! また春先に来れたらマリンスポーツも楽しんでみたいですし、離島もいろいろ行ってみたいですもん(離島の歴史もなかなか面白そうで……!)。母も姉も楽しんでいたようですし、本当に素晴らしい3日間でした。

 といって帰ってきて最初にやったのはHDDの確認ですけどね。嵐にしやがれ見ないと!!(欲望に忠実)

 今日はここまで。