揺れたもの、揺らいだもの。

現実に対して覚悟を決める。


 14時46分、私は会社で普通に仕事をしていました。うちの館長と後輩さんと3人でイスに座って作業をしていたら、突然館長が「地震やな」と気づき、私もようやくビル全体がふわふわ揺れていることに気づきました。まるで船にのっているかのようなゆったりとした横揺れで、思わず気分が悪くなるぐらいのゆれが、30秒以上続いたと思います。

 かなり大きい、ということで周囲にいた人と非常口を開けに行きましたが、ゆれが治まってもまだ揺れているようなそんな気分でした。ネットにつなぐと速報が出ていて、宮城県沖ということに驚き。宮城から大阪まで伝わる地震だということに愕然としました。

 その後も大きな余震のたびにビルがふらふらと揺れ、和泉の方からかかってきた電話で慌てて出張に出ていたおじさんたちに安否確認の連絡。おじさんたちも含め、建物の1階や道路にいた人たちは気づいてない人も多かったようです。やはりビルの7階というのが原因で大きく揺れたようですね。

 仙台の友人Aさんにも携帯にかけてみましたがつながらず。安否を教えてくださいというメールを送ったところ、幸い10分ほどして生きているとのメールが返ってきて一安心。けれどそのとき東北地方でいったい何が起きていたのか、私はまったく知りませんでした。その後も普通に仕事を続け、東京の本部は早々に帰宅を決めたとか、原発が自動停止したとか、新幹線も止まったとか、その程度のことしか知らないままに振り替えの着付け教室にいったのです。

 教室でも誰も全容はまだ知らず、全然揺れなかったね、いやビルの上階は揺れましたよ、そういえば号外が出てましたね、なんてそんな話題で終わっていきました。

 帰りの電車の中で、はじめて大津波が襲っていたことを知りました。家に帰ってテレビをつけて、映し出される映像に愕然としました。まるで映画のように大津波が街を襲っていて、走っている車が飲み込まれていっていました。石油コンビナートは爆発を伴いながら燃え続け、気仙沼は火の海でした。

 仙台の友人にもう一度電話をしてみたら、なんとかつながりました。市内でも山手に住んでいる彼女は家も無事で、ただ、停電が続いているから情報が何もわからない、携帯も充電がきれそうで、旦那さんとラジオを聞きながらうちの中で毛布にくるまっている、とのことでした。親類も沿岸部に住んでいる人は誰もいなかったらしく、全員無事とのこと。一安心ですが、2人で一緒にホヤを食べに行った荒浜は全滅しているだろうこと、名取市も、空港も、松島も、思い出の場所は全部津波でやられてしまっているだろう、という話でした。

 私は10回以上仙台に行っていて、岩手も青森も秋田も福島も全部旅行で行ったことがあるところで、私の大好きな場所で、大好きな場所があんなことになってしまって、映像を見ながらひとり泣いてました。自分の好きな愛しているものが見るも無残に破壊されていくことに泣いていました。若干精神的にも不安定になっていたのかもしれません。

 びーびー泣いて、落ち着いて、泣いたところでどうにもなるもんじゃないし、明日は明日の予定があるし、風呂に入ることにしました。

 私が泣き叫ぼうがどれだけ心を痛めようが、そんなことは何の役にも立たないのです。私は私の人生を生きなくてはいけないし、私にできることはきっと別にあるのです。前にも書いたように、私は日本のことが大好きなんです。日本を信じてます。この未曾有の危機に関しても、きっと日本なら大丈夫だと思っています。

 それだけを信じて、私は私の明日を生きようと思います。

 今日はここまで。