元親初陣ウォーク。

ナンバ歩きを会得したい。


結局お酒を飲むと睡眠薬があまりうまく効かないのか(むしろ効きすぎるという話は聞くんですが)あまり寝れたような気がしないままに6時に起床しました。とりあえず高知駅7時集合なので、化粧は後でいいやーということでまずは朝食。ホテルタウン駅前という実は5年前にはじめて高知を訪れた際にも宿泊したホテルなんですが、朝ごはんが100円で食べられるのです。おにぎり2つにちょっとしたおかず、お味噌汁がつけば十分ですよねぇ! もぐもぐ食べて、いったん化粧とかしてきますーってことで引き揚げてあわてて準備し、高知駅に向かいます。

高知駅にはすでに先生も、そして一緒に参加されるという先生の同級生も来られてました!! みなさんそこそこのお年というのにお若いですよねぇ。ちなみにこの初陣ウォーク、スポーツブランドのミズノの地球一周4万kmウォークというイベントの一環として開催されています。スポーツショップの方が主催で、まあ要はミズノが今ウォーキングシューズに力を入れているのでそれを含めてみなさんにウォーキングしていただこう、と。で、全国各地では普通にウォーキングイベントとして開催されてるみたいなのですが、高知ではそこに長宗我部ファンクラブの皆さんや歴民(昨日行ってきた資料館)のご協力もいただいて、ただのウォーキングイベントではなく初陣のコースをたどるということで開催されたそうです。昨年度はそれでも普通に歩いただけだったらしいんですが、今回はより歴史的要素も加えて、関連した場所ではファンクラブの方による解説もつくということで、さらにパワーアップしたみたいですね。

我々は譜代集として岡豊城から国分川沿いに進み、隼人神社、吸江寺で約10km、そこから10kmコースの人たちと合流し浦戸湾を渡し船でわたり、長浜の雪蹊寺若宮八幡宮の元親像がゴールという20kmのコースです。登山ならいくらでも歩いてますけど普通に平地を20km歩くっていうのは逆に初めての経験なのでなかなかどきどきしますねぇ。それに加えて長宗我部ファンクラブの方々の熱いこと!! 普通にのぼり(っていうか旗印ですよあれもう)がいっぱい立っててびっくりしました。すごい気合……!

一応出身地を書く欄があったのでYちゃんと二人して奈良って書いたらいろんな人に声をかけていただきまして。まあそりゃそうですよねぇ。ウォーキング慣れしている人はすごいハイペースでどんどんいっちゃうので、我々はほぼ最後尾でファンクラブの人の解説を普通に聞きながらてくてく歩いてました。意外と仙台藩との関係が深いとか、知らなかった歴史の事実を大いに聞かされてもう大興奮だったのでこれはこれで本当に良かったと思います。何よりYちゃんが参加してよかったと、思います……!(いろいろ事情があるのです)

ちなみに途中経過地点として隼人神社に寄ったんですが、これは本当に小さな村の神社という感じで、なんでも長宗我部家に仕えていた家臣の福留家がまつられている神社だそうです。信頼が厚く、長宗我部家の家紋である七ツ方喰(ななつかたばみ)から一つ抜いた六ツ方喰を使用しているとか。もとはこの神社があった場所が居城となっていたそうです。ただこの周辺も含めて岡豊城跡もそうですが、土佐藩時代の開発も含めて結構いろいろ開発されちゃっているので、長宗我部時代のものっていうのはあんまり残ってないんですよね。敗者の運命といえばそうなんですけど。実際土佐は本当に平地が少なかったので、国分川も堤防が築かれてますがこれが決壊すると本当にほとんどが水に浸かっちゃうらしいです。海抜0m以下の地域も多いらしく、地震がきたらほとんどの平地が液状化および地番沈下、津波でやられてしまうとのこと。宿毛もなんでも最高19mの津波が予想されているとかで、どう考えても無理やろ!という話になっているとか。実際なので高台避難所というよりもシェルターや救命ボート的な方向で何か防災の準備ができないか考えられているそうです。そりゃそうですよねぇ……。

さてそんな話もしつつ、さらにてくてく歩いて続いては吸江庵へ。現在は吸江寺という名前になってますが、もとは夢窓疎石によって開かれた寺で、長宗我部氏が室町の時代から寺社奉行を任じられていたとか。解説によるとその当時の寺社奉行は(各地いろいろあるらしいですが)、寺がもっている財を運用することができたらしく、それが長宗我部氏が力をつけるきっかけ?というか理由でもあったみたいです。吸江庵は中でも室町幕府に手厚く保護されていた寺らしいので。wiki先生にも聞いてみたんですがやはりこの室町・南北朝時代から戦国時代への流れっているのが一番私の歴史の中でわかっていない部分なのでね……!中央(京都)でもわかってないのにいわんや地方をや……! とりあえずまあ、ゆかりがあるということで。いったん長宗我部氏が衰退してからは寺も衰退しちゃうんですが、その後江戸時代に山内家に保護されるみたいですね。

ちなみに吸江庵の境内には千代丸地蔵というものがあり、元親が土佐を統一する過程で幡多の領主を追放したりするんですけど、その息子が寺に預けられたのに元親を恨んでいつも懐に刀を忍ばせるようになったとか。それを聞き及んだ元親が首をはねるように命じたんですが、その首ははねられた後も舟のヘリに噛みつき睨みつけ、はねた家臣はそれを見て発狂してお互いを刺しあって死んだとか。流れ着いた首のない死体を引き上げ、地蔵としてまつったらしいのです。で、ここまではまあよくある民間伝承なんですけど、そこから転じて首から上の病気とかにご利益があるっていう後世の人たちの発想がね!! 菅原道真さんが転じに転じて最終的に学問の神様になっちゃうっていうのもすごい話なんですけど、やっぱり発想がすごいよなぁ……。とりあえず安らかな睡眠を与えたまえ、ってお願いしときました。

あと吸江庵の隣にでっかいストゥーパ(インドの仏塔)があってなんぞ?と思ったんですが、どうやらあれはパゴダというらしく、ミャンマー方式のストゥーパのことを指すらしいです。これは第二次世界大戦の、特にビルマ付近での戦没者をまつった塔ということで、そういう会があって吸江寺近くに建てられたみたいですね。詳しいことはわかりませんが、今も昔も人々が祈りをささげるところでした。

で、ここで残りの10kmコースの人と合流する、ってことでちょっと待ち時間が発生したんですが、ここでなんとナンバ歩きの達人上野敏文先生によるナンバ歩き講座が行われました。といっても私はナンバ歩きのなんたるかを全く知らなかったんですが、これがちょっとしたカルチャーショックでして。ナンバ走りといえば昔の飛脚の走り方として知られているそうで、いわゆる「右手と右足、左手と左足が同時に出る」ようなものかと思ってたんですが、それとも少々違うようです。一応いろんな人がいろんな研究をしているみたいで、上野さん自身もナンバ歩きを研究中で、自身で歩きながら効率のよい疲れない歩き方を考えた結果、ナンバ歩き(もしかしたら定義としてはまた違うのかもしれませんが)を行っていらっしゃるそうです。実際にそれで一日に40kmぐらい歩いて大阪から富士山までいったらしいですからね! 一応最初の入門編として指導してもらったんですが、いまいちコツをつかみきれず、残りの10kmはひたすら首をひねりながらああでもないこうでもないという歩きになってしまいました。でも本当に上野さんに後ろから手を持ってもらって歩いてもらうと感覚が違うんですよ! 何よりわかりやすいのが上り坂。ナンバ歩きで歩くのと、腕を振って歩くのとでは全然違いましたもん負担が!!

一応いろいろ調べたんですが、やはりきちんとした「ナンバ走り」「ナンバ歩き」といった定義は確定しておらず、日本人特有の歩き方とかそういうわけでもないんですが、どうやらまあ着物の構造上大股では歩けなかったのは事実だし、太ももをあげて膝を曲げる歩き方も普通に考えたらしてなかったんだろうな、と思います。そしてよくよく考えれば毎回お茶のときに着物を着て畳の上を歩いているわけですが、基本は手を足の付け根において、すり足で歩くのが作法なわけです。そしてお茶碗やら柄杓やら、それこそ大切なお茶入れなどを持っているわけですから上下に体が揺れたら落っことしますよね。そうならないように、ほとんど体を上下左右にぶれさせずに歩く、というのが基本なわけですが、そういう意味でもナンバ歩きというのは理にかなっているのかな、と。

残りの道のりをひたすらYちゃんとナンバ歩きについて議論していたんですが、私が登山で18kgの荷物を抱えて歩くときっていうのは基本的に腕は振らないんですよね。両腕はどこにあるかっていうと、ザックの肩ヒモに手をかけているか、何だったら後ろで手を組んでたりしていてまったく体をひねる動きっていうのはしてないんです。なのでナンバじゃないですけど、登山の時の歩き方っていうのは結局体が一番効率的な歩き方をしてたわけですよね。なので変に手を加えるとこんがらがってうまくいかないんですが、上下運動がほとんどなく、背筋を伸ばし、体の軸をまっすぐに保ったまま前傾姿勢およびすり足に近い形で、地面を蹴らずに重心を移動させていくことで前に進む、というのがどうも基本のようです。言葉で言われたらわかるような気もするんですが、これを実践するのがね……! 上野さんいわく普段から意識していくことが大切なのだそうです。うむむむ、会得したいものですな……! 

さて後半10kmではてくてく歩いて種崎から無料の県営の渡船にのって長浜へ。車は浦戸大橋という橋ができて便利になったらしいんですが、今も県営の渡船は歩行者や自転車・原付の移動手段として地域の人々に利用されているそうです。

渡船を時間が1時間に1本なのでそれを待ちながらファイテンのお姉さん(スポーツショップが主催ですからそういう人も一緒に参加しておられます!)が疲れた足をマッサージしたり肩や首のツボに貼るシール?をやったりしてくれてたんですが、簡単な針治療みたいなもんなんですかね? どうやらシールにチタンボールが張り付けてあって、それがツボを刺激することによりコリをほぐすらしいです。ううむ、やはりツボというか東洋治療的なものがベースにあるわけですね。いろんな意味で本当に歴史を感じるウォーキングであります。(ちなみにYちゃんやIさんはやってもらってたんですが、私はそれほど疲れもなかったので見学させてもらいました)

渡船の中ではスポーツショップのお兄さんに足の裏が痛いんですけどなんでなんですかね?って言ったらスニーカーの靴ひもがゆるい!!と怒られました。そういや締め忘れてました(笑)普通に登山は基本的にぎっちぎちに締めるんですけど(でないと怪我するんで)、そりゃウォーキングもそうですよね。きっちり締めてもらったら足にフィットしてだいぶ軽くなった気がします。ちなみに締め上げちゃうと今度は脱ぎにくいので、それをお手軽にワンタッチで着脱可能にする靴ひもに取り付けるクリップみたいなものもあるそうです。ウォーキング終了後のじゃんけん大会の商品にもはいっているのだとか。それはぜひ手に入れたいものですね!

さて10分ほどで長浜に到着すると、今度は長浜での案内をしてくれるおっちゃんが。どうやら長浜の方でも観光ボランティア?か何かされてるみたいで、また別の長宗我部元親パンフレットをいただきました。とりあえず今みんないろんな意味で頑張ってんだなってことはわかりましたよ……!

次のチェックポイントとしては雪蹊寺です。四国八十八か所の札所でもありますが、元は真言宗のお寺で、元親の保護を受けて臨済宗のお寺に変わったみたいですね。基本的に元親は寺社に対しては手厚く保護してます。元親の死後、盛親によって元親の菩提寺とし、元親の法号である雪渓にちなんで雪蹊寺としたそうです。ただここにあるのは長男信親のお墓で、元親のお墓はまた別のところにあるんですけどね。(信親のお墓も前は浦戸にあったのが移されてきたらしい)明治の廃仏毀釈雪蹊寺が廃寺になったため、隣に建てられたのが秦神社です。長宗我部氏の祖先が秦氏だってことから秦神社という名になったのだとか。ちなみに全国でも秦の名前がつく神社っていうのはここだけなんですって。といいつつ、わが故郷大和にはがっつり秦ノ庄っていう地名があったりするんですけどね。確かに秦神社ってのはないかな……秦楽寺っていう寺はありますけど。秦氏も何かと歴史が古いですもんねぇ。ちなみに初陣である長浜の戦いではこの雪蹊寺に本陣が置かれていたそうですよ。

そしてついにゴール地点は長宗我部元親初陣像であります! 懐かしい!! 5年前勢いに任せて1泊2日で大阪から車を飛ばして屋島からの高知で墓参りと銅像だけ見て速攻引き返すというとんでもない行程の旅をやらかした記憶ありますが、やはり元親像はかっこいいですな! 結構大きいし、やはりポーズに見ごたえがあります。まあできたのは没後400年を記念した1999年なんですけどもね。やはり徳川300年の間は元親は敗者でしたからねぇ……。今ようやく明智光秀石田三成に焦点があてられているのと同様だと思います。ま、あと女性を中心とした戦国ブームな!(渦中にいるので何も言えない)

足元には四国が描かれていて、それを左手で掴み取ろうとしている、とのことです。右手は初陣で素晴らしい働きを見せたという槍を構えてます。ヒッキーだった姫若子ちゃんが鬼若子と呼ばれるようになった瞬間ですね。先生があとで混むから先に写真とっとこう!って言われて写真をとってたら、みんなは撮影後回しでとっととお昼ご飯に向かいのうどん屋に行っていたというオチでしたけどね(笑)でも5年前はここコンビニじゃなかったかなぁ? その当時はまだ全然長宗我部元親なんて有名じゃなくって初陣像も全然案内がなく、探し回ってちょっとそこのコンビニで聞いてみようぜ、って駐車場に車止めて振り返ったら居た―!!って言う感じでしたもん。

ちょっと気になって昔の記録を漁ってみたんですが、残念ながらちょうど日記には残してなかった時期ですね。ただ日付的には2007年の9月末に来ていたようです。そういえばあのときも秋で、日暮れが早くて焦りながら屋島佐藤継信義経の郎党)の墓を探してるうちに日が暮れてきて、ようやく見つけたのはもう夕方でしたもん。それであわてて高知に向かって車を走らせたんですがまたそのときがすごい濃霧でね……。濃霧の高知道を前の車のテールランプを頼りに走るという恐怖体験をやらかした記憶があります。

うどんを食べてもう一度元親像前に集合し、そこでじゃんけん大会。一応渡船でいってた靴ひも止めはゲットしました!! しかも非売品で七ツ方喰の家紋入りですよー!! ファイテンさんのグッズやスポーツショップのグッズの争奪じゃんけんには負けちゃったんですが、クリップもらえたので満足です。今度歩く機会があったら使ってみよう。

最後は次回の合戦(注:ウォーキングです)の案内があり、エイエイオー!の掛け声で解散となりました。でも普通のウォーキングイベントよりもずっと楽しいと思いますよ! 歩くこと自体が目的なんですがやっぱり付随するいろいろがあった方がお得感ありますもん。今度は1月らしいんですが、まあさすがにそのころには仕事に復帰してるでしょうから(と、思いたい)難しいかもしれませんねー。

一応Iさんは高知に来るのが初めて、ってことなのでそのまま先生の車で桂浜に向かいます。本当は国民宿舎でお風呂だけ入ろうって話だったんですが、残念ながら15時でお風呂は終了してしまってました……。まあ仕方がないのでそのまま桂浜観光です。遠くの台風の影響か、ものすごい荒波でした! いや、太平洋って感じですね。そして高知三度目の正直にしてようやく竜馬像とご対面です(笑)前回も桂浜に来たのに普通にスルーして海辺みて竜王宮(海の神様なんですがどっかから恋愛成就のご利益もひっぱってきてます)お参りして帰りましたもんね……。まあ幕末に関しては本当にまったく知らないので、勉強しなおしてから見たいと思います。いや幕末も戦国以上にいろいろあるし、まあ近代に近いから資料もいろいろあるっていうのはわかってるんですけども! まずは土佐藩ができるまでみっちり長宗我部氏について学んだので、幕末の土佐藩の動きについては次に高知に来たときに……(苦笑)

さて観光は終了!ってことになったので、今度は先生の同級生が五代目を務めているという酒蔵へ。高木酒造というところで、豊の梅というお酒が知られているそうです。なんでも土佐の祭りでどろめ祭りというとんでもない祭りがあるんですが(男は一升、女は五合を大杯で一気飲みする速さや飲みっぷりを競う/それのアテがどろめ)そこに使われているのがこの豊の梅なんだそうな。どろめ祭りがおこなわれる赤岡町にある蔵元ですもんね。先生の同級生ということもあり、今までもゼミ生を連れて何度も来たことがあるらしいのですが、今回も五代目直々に酒蔵見学させていただきました! 灘での酒蔵見学は大手ばっかりでいわゆる小学校の遠足とかできそうな「お酒のできるまで」や「酒造りの歴史」展示だったんですが、ここは本当に小さな蔵元ということでリアルに仕込中の蔵の中を普通に見学させてもらいました。高知県立工業技術センターが管理する酵母を使って酒母を作るそうなのですが、本当にもやしもんの世界ですよねぇ。どの酵母を使うかで辛口甘口の差、香りの差が出てくるかっていうのを教えてもらいました。いや普通にめっちゃ勉強になりましたよ!実際の仕込タンクの中までのぞかせてもらったりして。いやーすごいなぁ……!

最後は待ってましたの試飲で、とりあえず全種類飲ませてもらいました。もちろん1本は買って帰るつもりだったので、辛口の豊の梅もおいしかったんですが、たまには珍しいのを、ということでおり酒を購入。高知では日本で一番早く酒米が収穫されるらしく、日本で一番早く新酒が飲めるのだそうです。ということで仕込まれて出来立てほやほやなのがこのおり酒。濁り酒なので口当たりはまろやか甘口で飲みやすいんですが後味がすかっとするというか、飲み口と後味のギャップが面白くてついつい選んでしまいました。火入れして発酵は止めてあるらしいので、ちびちびやりたいと思います。夜1杯ぐらいなら晩酌にしてもいいかなぁ。

いい時間になってきたので五代目にお礼を言ってとりあえずホテルに帰還。先生もいったん家にかえってお風呂に入る、とのことだったので夜の飲み屋さんの場所だけ聞いてホテルにていったん休憩。ようやく汗を流すことができました。まあ横になったら確実に寝るという自信があったのでなんとか耐えましたけどね! ロビーで集合して連れて行っていただいた店は壱番街商店街にある一旬というお店でした。これまた先生の知り合いがやっているお店らしく(本当に先生のコミュニティがすごいわ!)いろいろわがままをいって土佐の名物をめいっぱい出していただきました! ちなみに先生の同窓会も兼ねていて、元親ウォークに参加されていたお姉さま2人と高知県庁?市役所?にお勤めの方もご一緒させていただきました。またこのお姉さんが(先生と同い年ですが消しておばさまではない!若い!)ちゃきちゃきした方で楽しくお話させてもらいました。

この時食べたカツオのたたきが実は昨日の屋台で食べたタタキよりうまかったっていうね。油がのってて皮がパリっと香ばしくてやっぱりタタキは塩で食べるのが最高だな!と思わせてくれる逸品でした。そりゃ酒も進むってもんです! のれそれ(イワシの稚魚)もあったし、チャンバラ貝(勝浦でも食べたけど)、手長エビのから揚げ、でっかい朝日蟹(祝い事のときに食べるらしいですが高知の人でもめったに食べられないとか!)とかもう本当においしかったです。高木酒造のお酒がなかったのは残念ですが、地酒飲み比べで酔鯨、南、四万十川(菊水酒造さん)を頼んでみたり、無手無冠酒造さんのダバダ火振という栗焼酎をいただいたりもしました。土佐の酒はまっことうまいぜよ!(ほろ酔い)てな感じでそこから焼きサバ寿司だのハランボ(カツオのハラミ部分)の焼き物だの、最終的にはデザートにプリンまでいただいてシメとなりました。いやぁうまかったなぁすべてが! ウコンの力を飲んだおかげかYちゃんもいつもよりお酒をたくさん飲めたようで、いろいろ味見して楽しんでくれたようで良かったです。ふふふ、酒の世界へようこそ!!

ちなみに先生の同級生のお姉さんと話をしてたんですが、私が先週も宿毛にきてた(実は一昨日まで宿毛に居たんだけどさすがにそれ言うとドン引かれると思ったので)と言ったら今の若い子ってそんなに活動的なの!?とびっくりされてしまい、Yちゃんに「いやこの子が変わってるだけです!!」とすかさずつっこまれてしまいました。えー私で活動的っていったらMさんのばあちゃんの老人会の旅行スケジュールとか全然とかですけど?まあいつまでも活動的でありたいなとは思いますよ! お金がいくらあっても足りないけどね!!

22時ぐらいにはちゃんと解散するあたりが大人だなぁと思いますが(広島との差)、先生はもうひとりの同級生さんともう一軒いったようです。我々はホテルまで歩いて帰れる距離だったのでそのままてくてく歩き、明日の朝ごはんは8時ぐらいにしますかーってことで部屋にひっこみました。一応酒が抜けるまで待ってから薬を飲んで就寝となりました。いやぁ、本当に高知を満喫した大満足の一日でしたよ!!

今日はここまで。